消費財マーケティングでは、カスタマージャーニーペルソナ分析が広く活用されています。これらの手法は、消費者のニーズは漠然とした性質を持ち、それがブランドや広告、エンゲージメントを通じて形成され、購買に至るという前提に基づいています。

しかし、医薬品業界ではこのロジックが当てはまりにくいのが現実です。消費者とは異なり、医師や医療従事者(HCP)は、感情やライフスタイルの影響で処方を決定するのではなく、臨床エビデンス、ガイドライン、患者ごとの要因に基づいて判断します。この根本的な違いが、従来のマーケティング手法を機能しにくくしています。

1. ウォンツ vs. ニーズ:明確な治療目的がある

消費財は、生活の質向上や自己表現といった抽象的な欲求を満たすため、理想的なペルソナを設定し、メッセージを最適化することが有効です。しかし、医薬品は医療上の必要性に基づくものであり、消費財のような「欲しいから買う」という意思決定が発生しません。

  • 糖尿病患者は、新しいスマートフォンを「欲しい」と思うような形で薬を「欲しい」と思うわけではない。
  • 医師は、マーケティングによって「この治療を試してみよう」となるのではなく、科学的データ、査読付き研究、医学教育をもとに治療を選択する。

このように、治療の意思決定はすでにある程度決まっており、カスタマージャーニーによる影響範囲は限定的です。

2. 意思決定は厳格な規制とエビデンスに基づく

消費財市場では、顧客が価格やデザイン、ブランドイメージなど複数の要素を考慮して購買を決めます。しかし、医療の世界では、医師はエビデンスベースで意思決定を行い、ガイドラインや保険償還のルールが処方選択を大きく左右します。

  • 処方は感情的・直感的な行動ではなく、有効性・安全性・診療ガイドライン・患者背景などの要因が絡み合う。
  • 医薬品マーケティングは厳格な規制のもとで行われ、一般消費者向けの広告は禁止されている国が多い。また、企業は科学的根拠のある情報のみを提供することが求められる。

このように、柔軟な消費者行動を前提としたマーケティング手法は、医療業界の厳格な意思決定プロセスとは相容れません。

3. 意思決定者(医師)とエンドユーザー(患者)が分離している

カスタマージャーニーのもう一つの課題は、処方権を持つのは医師であり、最終的なユーザーである患者とは分離していることです。

  • 消費財では、ニーズを持つ人がそのまま購入の意思決定を行う。
  • 医療業界では、患者自身が医薬品を選ぶことはほとんどなく、処方を決めるのは医師である。

アメリカなど一部の国ではDTC(Direct-to-Consumer)マーケティングが可能ですが、日本を含む多くの国では患者の感情的な購買行動に訴えるマーケティングは効果を持ちにくいのが実情です。

4. カスタマージャーニーより「治療プロセス」の理解が重要

カスタマージャーニーのように「認知→興味→購入」といったプロセスを追うのではなく、医薬品ビジネスでは治療選択のプロセスを理解することが重要です。

標準的な診療プロトコルはどうなっているのか?
どのタイミングで医師は治療法の変更を検討するのか?
新しい治療が、有効性・安全性・費用対効果の面でどのように比較されるのか?
医師がある治療を選ぶ決め手となる要因は何か?

このような診療プロセスを可視化する「意思決定ツリー」や「治療ワークフロー」の分析が、カスタマージャーニーよりも有効です。

結論:マーケティング手法の見直しが必要

医薬品マーケティングは、消費者の心理的プロセスを操作するのではなく、適切な情報を適切なタイミングで提供し、医師の治療選択をサポートすることが本質です。医薬品業界におけるマーケティング戦略は、消費財向けの手法をそのまま適用するのではなく、医療現場の意思決定プロセスに基づくべきです。