未だにAIに対して否定的な意見は根強く存在しています。とりわけ以下の2点はよく聞く意見です。

1. 正確性への不信

一つは「AIは間違った情報を出す」「根拠が曖昧」「事実と異なる回答をすることがある」といった懸念です。もう一つは、「人間のような温かみがない」「感情がこもっていない」「創造性や魂が感じられない」といった心理的な違和感です。

新しい技術が世に現れるたび、私たちはいつも戸惑い、疑念を抱き、そして時に強く拒絶します。

「慣れ親しんだ温かさ」より「圧倒的な合理性」が勝る時

かつて移動手段の主役は馬車の時代がありました。馬は単なる道具ではなく、生活を共にするパートナーであり、家族のような存在でした。農作業や荷運び、時には戦場で命を預ける相棒として、そこには確かに感情の交流がありました。

では、なぜ人々はそんな馬車を捨て、無機質な「鉄の箱」である自動車に乗り換えたのでしょうか?それは、自動車が提供する「利便性と効率」が、馬車への「拒否感」を圧倒的に上回ったからです。

自動車は疲れを知らず、天候や馬の体調に左右されず、そして何よりも速い。馬車で半日かかった距離も、車なら数時間で移動できます。エサや糞の処理も不要で、維持コストも車の方が合理的でした。「慣れ親しんだものを捨てる痛み」よりも、「日々の生活の劇的な変化」が、より現実的なメリットとして人々に実感されたのです。理性ではなく、日々の「実感の積み重ね」が人々の行動を変えてきました。


社会インフラの変化が「選べない」状況を生む

技術の浸透は、社会全体のインフラ変化と不可分です。道路は舗装され、馬では出せない速度に対応するよう整備され、ガソリンスタンドや自動車修理工場が各地に出現しました。やがて、馬を使うこと自体が「時代遅れ」となり、逆に馬糞の処理コストが上昇するなど、馬を維持する方が非合理的になっていきました。

社会が「車ありき」で回り始めると、もはや馬車では生活が立ち行かなくなります。ビジネス、物流、観光、宅配、流通、、あらゆる産業が車を前提に動き出し、馬にできることより、車にしかできないことが急激に増えていきました。

これは、個人が「馬車を選ぶか、車を選ぶか」という選択の余地を徐々に奪っていくプロセスです。そして最終的には、「馬を選びたくても選べない」社会へと移行していきました。これはもはや「感情の問題」ではなく、「生き残りの問題」へと変化した瞬間と言えるでしょう。


新しい世代が「前提」を変える

そして、技術の浸透を決定づけるのが世代交代です。馬に乗って育った世代にとって車は冷たい鉄の塊だったかもしれませんが、生まれたときから車がある世代にとって、馬は「歴史や物語の中の存在」に過ぎません。

新しい世代は、最初から自動車がある世界を「当たり前」として認識します。そうして文化や価値観が変わると、「何を選ぶか」ではなく、「何を前提とするか」の問題へとすり替わっていくのです。


感情は残っても、現実は合理性を選択させる

馬との別れを惜しみながらも、車のハンドルを握るしかなかった人々。この構図は、現在の私たちがAIと向き合う状況と酷似しています。「人間味がない」「創造性がない」そう思いながらも、AIの処理速度、知識の幅、24時間稼働できる効率性は圧倒的です。

やがてビジネスの現場も、社会のインフラも、「AIを前提としたもの」に置き換わっていくでしょう。その時、私たちは「心地よいもの」を選ぶか、「生き残る手段」を選ぶかという、かつての馬車を選んだ人々と同じ選択を迫られます。


結論:人間は、感情と合理の間で揺れながら進化する

私たちは常に、「情緒的な愛着」と「現実的な選択」の間で葛藤し、最終的には「より生き延びやすい方」を選んできました。馬から車へ、そして今、人からAIへ──これは単なる技術の話ではありません。人間がどう生きるかを選び取る、壮大なテーマなのです。

新しい技術への拒絶は、決して愚かな反応ではありません。そこには人間らしい感受性や、歴史・文化への敬意があります。しかし、それでも私たちは“前に進む”ことを選び続けてきました。

それが、人類が歩んできた「不完全ではあるが、力強く進化する歴史」と言えるのではないでしょうか。