――DSA+DAGが“世界をありのままに捉える”ためのツールである理由」
DSA+DAGの価値を説明するときに「80%と20%」という比喩を使ってきました。標準治療や標準施策が効く“多数派”が80%、そこから外れる“少数派”が20%。平均と相関が前提の世界では、この20%はしばしば「例外」「ノイズ」「仕方ない」で処理されてしまう。そういう意味での比喩として用いていました。
先日、目にしたSNSの投稿で、比喩ではなく、まさに現実の出来事として実感しました。白血病の治療中の若い方の投稿です。
「『3回までで、80%は改善する』と言われました。
でも私は、その20%側でした。」
さらに続く言葉が、胸に刺さります。
「努力しなかったわけでも、治療を拒んだわけでもありません。」
ここで起きているのは、医学の失敗というより、意思決定の失敗です。
「80%改善」という情報は、集団としては正しい。しかし個人にとっては、正しさが救いにならない。むしろ、その正しさが“20%側”の人生を、静かに、確実に、切り落としてしまします。
そして社会は、残酷なほど簡単に言ってしまう。
「十分頑張ったんだから、もう悔いはないでしょう?」
しかし当事者は言うのです。
「未練は、山ほどあります。」
この瞬間、「80%と20%」は統計の比喩ではなくなります。
それは、誰かの時間であり、家族の生活であり、未来そのものです。
平均の外側に押し出された人の、取り戻せない現実です。
DSA+DAGの使命は、ここにあります。
平均値で「効く/効かない」を語って終わらせない。
相関で「こういう傾向」を語って満足しない。
“20%側”を「例外」として片づけず、なぜその人が20%になったのかを構造として捉える。
そして、もし可能なら、その人が次に同じ治療や選択をするとき、80%側に移る条件を示す。
これは希望論ではありません。倫理でもスローガンでもありません。
「80%は改善する」という言葉が、20%の人を黙らせる道具になってはいけない。
“効かなかった人”の物語を、統計の影に埋もれさせてはいけない。
むしろ、医療も社会も本当に強くなるのは、成功例の数ではなく、失敗の内訳を扱えるようになったときです。
DSA+DAGは、20%を“救済対象”として見るのではありません。
20%を、次の意思決定を更新するための「情報の核」として扱います。
「うまくいかなかった少数」を終点にせず、“なぜ”を起点に変える。
そのために、分布を見て、構造を分解し、因果の経路を描きます。
DSA+DAGは、世界が見落としてきた20%を、意思決定の俎上に戻すための武器となりうる。
DSA+DAGの開発はもはや私にとっての使命です。
