臨床研究や学術の世界には、ある種の逆説があるように思います。
既に存在している事実を観察し、整理し、報告することは論文として評価されやすい。
一方で、これまで存在しなかった方法や枠組みを生み出す「発明」は、しばしば既存の評価軸の中でしか審査されません。
しかし本来、この二つは同じものではありません。
「発見」は、自然や現実の中にすでにあったものを見出す営みです。
一方、「発明」は、これまで存在しなかった認識の枠組みや手法を構築する営みです。
にもかかわらず、学術査読ではしばしば
「既存手法と比べて妥当か」
「従来の文脈で説明可能か」
という観点が中心になり、新しい枠組みそのものの価値は評価されにくいことがあります。
これは、査読者が悪いという話ではありません。
むしろ、査読という仕組み自体が、本質的に“未知のものを高く評価する構造”にはなっていないのだと思います。
私はこの数年、DSA-DAGという因果推論フレームワークの開発に取り組んできました。
分布構造そのものを情報として扱い、従来の統計手法では平均化や要約の過程で捨てられていた構造的シグナルから、因果仮説の手がかりを導く考え方です。
特許出願、プレプリント公開、GitHubでの実装公開を進め、そして論文の投稿を完了しました。
ここで改めて感じるのは、学術誌の査読プロセスは、必ずしも「発明」を正当に評価するために設計されているわけではない、ということです。
歴史を振り返っても、この構図は珍しくありません。
たとえば、DAGと因果推論の発展に大きく貢献した Judea Pearl も、当初はその考え方を十分に理解されず、長い時間をかけて評価が定着していきました。
新しい枠組みは、最初から歓迎されるとは限りません。むしろ、既存の尺度では測れないからこそ、理解にも時間がかかります。
だからこそ私は、発明の価値は査読だけで決まるものではないと思っています。
それを支えるのは、特許制度であり、実装であり、最終的には市場や現場での有用性です。
論文は重要です。しかし、論文だけが価値の証明ではありません。
新しい方法論や技術に取り組んでいる方ほど、
「理解されないこと」
「既存の物差しでは測られないこと」
を一度は経験するのではないでしょうか。
それでも前に進めるかどうか。
そこに、発見ではなく“発明”に挑む人の仕事があるのだと思います。
