世の中を見ていると、生成AIとの付き合い方に戸惑っている人は少なくないようです。AIをどっぷり使ってその便利さに驚く一方で、しばらくすると「AIに依存しているのではないか」「自分で考える力や文章を書く能力が衰えているのではないか」と不安になる。そして一度距離を置き、また戻ってくる……。3歩進んで2歩下がるように、恐る恐る距離を測っている状態です。

私の場合ですが、 抱えているタスクの期限に追われ、「適切な付き合い方」をじっくり考えている余裕がありません。分からないことに不安を覚えながらも、とにかく使う。気がつけば、まさに「AI漬け」の日々です。

ところが、そんな中で、不思議な変化を最近感じるようになりました。

「説明できないけれど、何かおかしい」という感覚

AIが出してきた回答を、私自身が完全に理解できているとは限りません。プログラムコードのすべてを説明できるわけでも、統計解析の数理を自分で導出できるわけでもない。それでも、「何かおかしい」と感じることがあるのです。

論理が飛んでいる。前提が変わっている。数字は合っているが結論がおかしい。質問には答えているが、本当に聞きたかったことから微妙にずれている。

その違和感をAIに返します。「そこではない」「前提がおかしくないか」「別の方向から検証してほしい」と。これを繰り返しているうちに、一つのことに気づきました。

AIを使う能力とは、AI以上の知識を持つことではない。

これは「プロジェクトマネージャー」に似ている

考えてみれば、私はこれまで仕事の中で似たことを経験してきました。大きなプロジェクトを指揮するプロジェクトマネージャー(PM)です。

プロジェクトには統計家、エンジニア、法務、マーケティングなど様々な専門家が参加します。PMが全員より専門知識を持っていることなどあり得ません。しかし、PMには別の能力が求められます。

  • 「技術的には正しいが、目的から外れていないか」
  • 「その数字は、他の結果と矛盾していないか」
  • 「全体としておかしな方向へ進んでいないか」

必要なのは、すべての楽器を誰よりもうまく演奏する能力ではなく、オーケストラ全体を指揮する能力です。AIを使うことも、これに近い感覚があります。

新入社員の「暗黙知」が形成されるプロセス

もう一つ、新入社員の成長プロセスにも似ています。

新入社員の頃、右も左も分からないまま見よう見まねで仕事をし、失敗し、注意されながら繰り返すうちに、「ここは先に確認した方がいい」「この数字はちょっと変だ」と、理由を言語化する前に「勘所」が分かるようになります。これは知識の蓄積ではなく、実践の反復による暗黙知です。

AIとの付き合い方も同じです。最初はプロンプトの書き方も分からず、回答を信用して失敗する。それを大量に繰り返していると、いつの間にか「このAI、今ちょっと怪しいぞ」が分かるようになる。AIの内部構造を完全に理解していなくても、経験によって暗黙知が形成されていくのです。

知的能力の置き場所が変わる:プレイヤーからコンダクターへ

これまで「知的能力」とは、自分で知り、考え、作り、確認することだと考えられてきました。しかしAIを深く使うようになると、そのプロセスは次のように変わります。

目的を定める → AIに任せる → 出力を見る → 違和感を検出する → 問い直す → 統合して判断する

電卓やカーナビと同じように、AIによって失われる能力(ゼロから書く力など)はあるでしょう。しかし、一人の人間がAIによって巨大な専門家集団を持つことが出来る時代において、人間の役割は「プレイヤー」から「コンダクター」へと変わり始めています。

AI時代に人間が持つべき能力は、「全部自分でできる能力」から、「何をAIに任せ、何を疑い、どこで止め、何を自分で決めるのかを判断する能力」へと移っていくはずです。

本当に失ってはいけないもの

AIが代替し始めた対象が「知的作業」そのものであるからこそ、私たちは不安になります。しかし、AIに渡してはいけないものが明確に2つあります。

  1. 「何かおかしい」と感じる違和感察知能力
  2. 最後に「これで行く」と決める最終的な判断権と責任

「AIを使いすぎるとAI依存になる」という議論がありますが、もう一つの可能性を忘れてはいけません。AIを使わなければ、AIを使うことでしか身につかない「勘所」も身につかないということです。

知識量でも作業速度でもなく、違和感を感じ取る感覚と判断力。AI漬けの日々の中でしか得られない、新しい時代の「指揮する感覚」を養っている最中なのだと思います。