アカデミアにおけるAI使用は、積極派と消極派による個人の選択として語られます。
しかし、すでに問題はその段階を越えているようです。研究者本人がAIを使うかどうかに関係なく、AIが担う領域は拡大し続けているからです。
文献探索、仮説生成、解析コードの作成、統計モデルの比較、DAG候補の生成、結果の解釈、論文執筆、査読支援…、研究活動の各工程にAIが入り始めています。
自分がAIを使わなくても、共同研究者が使います。競合する研究室が使います。出版社、査読者、企業、研究費配分機関も使うようになります。
したがって「私はAIを使わない」という選択は、AI以前の研究環境に留まることを意味しません。
AIによって再編された研究環境の中で、自分だけが直接利用しないという位置を取ることは現実的には不可能になります。
AIは「研究を支援する道具」から「研究環境」へ変わる
AI事象が高度化すれば、「AIを使えること」自体も研究者の優位性ではなくなります。
プロンプトを工夫できること、解析コードを生成できること、論文案を短時間で作れることも、いずれ一般化します。さらに進めば、AI自身がこれらの工程を自律的に実行します。
一方で、AIを使わずに能力を守ろうとする研究者にも、別の問題があります。
文献を大量に読み、解析コードを自分で書き、整った英語論文を作成できたとしても、その作業を人間が行うことの希少的価値は低下します。
能力を維持していても、その能力を必要とする領域自体が縮小する可能性があるからです。
これは、積極派と消極派のどちらが正しいかという問題ではありません。研究における人間とAIの分業構造が、個人の意識とは無関係に変化しているのです。
人間に残るのは「AIにできない仕事」ではない
「AIにできないことを人間が担えばよい」と言われます。
しかし、AIにできない領域は固定されていません。昨日まで人間にしかできないと思われていた仕事が、次々にAIの領域へ移っています。
人間の役割をAIの能力の外側に置けば、AIが進歩するたびに後退を迫られます。
人間に残すべきなのは、AIに能力的にできない仕事ではありません。
AIに実行させることはできても、AI自身に最終決定させてはならない仕事です。
例えば、
- 何を研究課題として優先するのか
- その前提を現実に置いてよいのか
- どのリスクを受容するのか
- どこまで因果関係を主張できるのか
- 判断不能な結果を判断不能として残せるか
- 臨床応用や社会実装へ進めてよいのか
- 誤った場合に誰が責任を負うのか
という判断です。
これはAIの能力不足によって人間に残るのではありません。科学制度として、人間や独立した機関が引き受けなければならない権限と責任です。
研究のボトルネックは「生成」から「認可」へ移る
これまで研究のボトルネックは、仮説を考え、解析を実行し、結果を発見し、論文を書くことでした。
AI研究時代には、この関係が変わります。
仮説を作ることから、仮説を選別することへ。
解析を実行することから、解析を認可することへ。
結果を発見することから、適用範囲を決めることへ。
論文を書くことから、主張の強さを制御することへ。
AIが研究成果を大量に生成できるようになるほど、「何を作れるか」よりも「何を科学的知として認めてよいか」が重要になります。
DSA+DAGが向き合うのは、AI利用者ではない
分布構造分析(DSA)と因果推論モデル(DAG)の必要性は、研究者がAIを積極的に利用するから生じるのではありません。
AIが生成した仮説、解析、因果説明、論文が、研究者個人の意思とは無関係に科学システム全体へ流入することから生じます。
問うべきことは、生成主体が人間かAIかではありません。
そのデータに、そもそも測定や比較を許容する構造があるのか。因果効果を識別できる条件が成立しているのか。推定器の適用領域内なのか。結果をどの集団へ一般化できるのか。そして、どの強さの主張を許可できるのかにあります。
DSA+DAGは、AIをさらに便利にする追加機能ではありません。
AIが研究環境そのものになる時代に、生成主体を問わず、研究成果の主張可能範囲を制御する独立した認可・ガバナンス基盤です。
これからアカデミアに問われるのは、AIを使うか、使わないかではありません。
AIによる「生成能力」だけを拡張するのか。それとも、生成された成果を検査し、棄却し、主張可能範囲を決める「認可能力」も同時に構築するのか。
AIの領域拡大は、個人の意識や賛否を待ってはくれません。
だからこそ今、AIよりも多くの答えを出す技術ではなく、AIが出した答えをどこまで科学的・社会的な知として認めてよいかを判断する仕組みが必要なのです。
