会社で10年働けば、多くのことを「知る」ようになります。
この顧客は価格より納期を重視する。このトラブルなら、まずここを確認する。この条件なら、この説明から始めた方が商談は進みやすい。
こうした知識の多くは、マニュアルには書かれていません。経験を通じて身についた「暗黙知」です。
従来、暗黙知には大きな制約がありました。
人間の頭の中にあるため、そのまま複製できないことです。
優秀な社員が退職すれば、知識も一緒に会社から失われます。逆に転職した本人も、前職で得た経験を利用できますが、頭の中の知識をUSBメモリのように完全な形でコピーして持ち出すことはできません。
ところが、AIはこの前提を変えます。
社員が日常的にAIへ相談し、顧客対応、失敗、成功、判断理由、業務上の工夫などを蓄積していけば、これまで本人の頭の中にしかなかった知識の一部が外部化されます。
「この場合はどうする?」
と尋ねれば、過去の経験を踏まえた回答を再現できる。さらに、それがデジタル情報として保存されていれば、検索、複製、移転も可能になります。
ここで重要なのは、「AIが知っていることは誰のものか」という抽象的な所有論ではありません。
人間の暗黙知が、再現可能・複製可能・移転可能なデジタル資産へ変わることです。
これは企業にとって大きな機会です。
ベテラン社員の退職とともに消えていたノウハウを組織に残せる。担当者によって異なっていた判断を共有できる。新人が何年もかけて身につけていた知識に短期間でアクセスできるかもしれません。
一方で、これまで存在しなかったリスクも生まれます。
社員が退職するとき、そのAIは誰が使い続けるのか。個人AIなら持ち出してよいのか。そこに顧客情報や営業秘密が含まれていたらどうするのか。
必要なのは「AIの知識は会社か個人か」という二択ではないでしょう。
何がAIに外部化されたのか。どこに保存されているのか。どこまで再現できるのか。誰が複製・移転・利用できるのか。
これを管理する仕組みです。
AIが変えるのは、人間が知識を持つことではありません。
これまで人間の頭から簡単には取り出せなかった「知っている」が、持ち運べる資産になることです。
AI時代の知識管理は、そこから考える必要があるのではないでしょうか。
