AIという新しい道具を使うことそのものに、人間観・自己同一性・自由・責任・所有といった非常に大きな問題を背負わせていませんか?

AIに頼ると思考力が落ちるのではないか。AIに自分を覚えさせると、自分らしさが固定されるのではないか。AIネイティブの子どもは自分で考えられるのか。そして、人間にしかできないことは何なのか。

なぜAIだけがここまで哲学化されるのか?

私たちは電卓を使うたびに「計算とは何か」と考えません。カーナビを使って「空間認識を機械に委ねてよいのか」と悩むこともない。ところがAIになると、突然「人間とは何か」という話になります。

おそらくAIが代替し始めたものが、これまで私たちが「人間らしさ」だと思っていた能力だからでしょう。道具を使っている感覚と、能力を代替されている感覚の境界が曖昧になっている。

実は「AIについて」ではなく「人間について」考えている

文章を書く。考える。調べる。要約する。アイデアを出す。

AIがそこへ入ってくると、「でも創造性は人間にしかない」「共感は人間にしかない」「最後に責任を取るのは人間だ」と、AIにできないことを探し始める。

AIの能力を論じているようで、実は人間の存在価値を確認している。

しかし人間は、昔から能力を道具へ外部化してきました。文字によって記憶を、電卓によって計算を、検索エンジンによって情報探索を外部化しました。

私自身、パソコンを使うようになって文字を書くことが減り、漢字を思い出せなくなりました。その代わり、キーボードを叩き、検索し、編集し、大量の情報を扱うようになった。

能力を失ったというより、能力の構成が変わったのです。

便利だから使う。間違えるから確認する。重要な場面では責任の所在を決める。問題が起きたらルールを変える。

自動車もパソコンもスマートフォンも、私たちは哲学を完成させてから使い始めたわけではありません。使ったから社会が変わり、社会が変わったからルールが生まれました。

むしろ問うべきなのは、「AIに何ができないか」ではなく、なぜ私たちはAIにできないことをこれほど必死に探すのかなのかもしれません。

AIは、人間の存在を脅かしているというより、私たちが何を根拠に自分たちの価値を決めてきたのかを映す鏡なのかもしれません。

でも、鏡を使うために哲学は必要ありません。

まず使ってみる。使いながら考える。

そして昨日までできなかったことができるようになったなら、それもまた、人間の能力です。